2瓦当文から古代豪族の系譜を探る

➁若草伽藍斑鳩寺は用明天皇の病気平癒を誓願した寺院

【素弁九弁蓮華文】・高句麗系

蓮弁の中央に一本の線が入り弁間に楔が入る高句麗系の特徴の瓦当文である。しかも蓮弁が9枚である。同笵が中宮寺と平隆寺に出土して、飛鳥寺の当初の殻らは百済系とされるが、若草伽藍で出土していることは後に高句麗系が造られたことを意味している。 

【忍冬唐草文軒平瓦】・パルメット

我国最初の軒平瓦で、それまでは平瓦の重ねた横断面が露出していた。このパルメットがらで平瓦の軒先をカバーした。

作製方法は型紙に唐草文を描き、文様のついた型紙を粘土板に文様を写し、次の文様は反転して写している。

【唐草文軒丸瓦】

軒丸瓦は蓮華文が主力であるが、この瓦当文は忍冬唐草文です。中宮寺と斑鳩宮に同笵瓦が出土している。厩戸皇子との関係が推測される。


【素弁八弁蓮華文の同笵瓦が四天王寺で出土】

八弁蓮華文丸瓦が出土しているが、四天王寺創建時の軒丸瓦と同笵です。若草伽藍出土の瓦は傷がなく、四天王寺出土瓦には傷がある。これは若草伽藍の瓦が四天王寺瓦より先行して焼成されていたことが分かる四天王寺創建は【日本書記】の崇峻天皇即位に示す推古元年(593)である。すると若草伽藍はこれ以前の創建ということになる。厩戸皇子は622没です。用明天皇は602年没(法隆寺金堂薬師如来光背銘)。従って若草伽藍の鵤寺は用明天皇の病気平癒を誓願して建立されたこが考えられる。


法隆寺西院伽藍:上宮王家滅亡後の法隆寺を支えた庄倉

【複弁蓮華文軒丸瓦】

蓮弁が複弁で、中央の中房が大きくつくられ、中の蓮の実のような蓮子が中央の1個中心として二重にめぐる。連番の反転が仏像の蓮華座のように強くあらわされている。蓮弁の外側の外区には鋸歯文をめぐらせている。 

【均整忍冬唐草文軒瓦】

三葉のパルメット(唐草文)が宝珠のような中心から左右にのびやかに展開する。

【法隆寺式軒瓦】

複弁蓮華文軒丸瓦と均整忍冬唐草文の組み合わせを「法隆寺式」と呼びます。

特に法隆寺式の軒丸瓦は近江、摂津、播磨、讃岐・伊予の地域に顕著に分布している。この分布は法隆寺の庄倉の地域とよく一致している。


【法隆寺式軒瓦の出土状況】

①滋賀県栗東市蜂屋廃寺 

法隆寺式の軒瓦と同笵の忍冬唐草文平瓦と複弁八弁蓮華文丸瓦が出土している。飛鳥時代は栗太郡(くりたこおり)物部郷にあたり、用明2年(587)に蘇我と上宮王家が物部氏を倒した際に、物部氏が有する領地を上宮王家が得た想定される。蜂屋廃寺を建立した氏族は、法隆寺西院の再建にかんして、多大な財政支援を行ったことが想定され、蜂屋寺の造営の際し法隆寺西院の造瓦所から軒丸瓦の瓦当范の提供を受けることができたものと推定される。

➁兵庫県伊香保郡太子町を中心とする「鵤荘(いかるがそう)」

推古14(606)推古天皇から播磨国佐西五十万代の地を「伊河留我本寺」・「中宮尼寺」・「片岡僧寺」に施入したとある。法隆寺の出先機関として寺院が建立され、「斑鳩寺」とよばれた。近辺には法隆寺近くの地名を移したものが多くみられるといわれる。この鵤荘は法隆寺を支える大きな財源であった。


【上宮王家の法隆寺若草伽藍・斑鳩宮と庄倉の法隆寺信仰】

若草伽藍の寺院を斑鳩寺、西院伽藍の寺院を法隆寺と区分してみる。斑鳩寺の創建を法隆寺金堂薬師如来の光背銘により推古10年(602)とし、山背大兄王が蘇我入鹿の襲われ皇極2年(643)に没し、厩戸皇子からの上宮王家が滅亡した。そして天智9年(670)斑鳩寺が焼失する。山背大兄を襲った一軍に巨勢氏の徳太がいる。巨勢氏の氏寺の巨勢寺跡から、上宮王家との関係の深い奥山久米寺式の軒丸瓦が多く出土している。巨勢氏は厩戸皇子が没するまでは上宮王家と政治的に深い関係があったこと考えられ(後の法隆寺式複弁八弁蓮華文も出土している)、厩戸皇子が没すると蘇我氏つながりを強めていって山背皇子を襲うこととなった。その後乙巳の変で蘇我氏が滅亡したのちにの律令制時代にも巨勢氏は政権の中心をいる。上宮王家が没した後には斑鳩寺を運営していたのであろうと思われる。そして670年に斑鳩寺は焼失した。その後は法隆寺のスポンサーとなる有力豪族はいなかったのであろう。法隆寺の再建は相当困難な状況にあったと思われる。しかし藤原京と平城京と難波とを結んだ、とくに水運が重要と思われるが、交通の要所のある貴重な寺院としての存在が、朝廷に取り込まれていったと思われる。法隆寺が再建完成した8世紀ごろには僧が176人、見習い沙弥が87人計263人そのた奴婢が533に人と『法隆寺資材帳』が示す。このころには法隆寺の財政を支えた「庄倉」各地みられる。その中心の播磨の「鵤荘」があった。鵤荘ような太子信仰が中心に法隆寺信仰が各地の庄倉でったことがわかる。平安初期には聖徳太子信仰がひろがってさらに発展し今日の法隆寺となっていった。