第2回 物集女(もずめ)車塚古墳

物集女車塚古墳は石室・石棺の構成が特異であり、使われている石の産地を調査した結果、古墳を築造した豪族の勢力などが推測出来てくる。考古学の面白さが現れる。

物集女車塚古墳は発掘調査から6世紀の古墳と調査されている。

阪急東向日駅がら東へ約15分:参照:MAP

石棺形式の年代

「割 竹 形石棺」は、4世紀中ごろ出現し短期間で姿消す。石材は香川県中部の「鷲 の山石」、東部の「火の山の石」。竹割木棺墓からの進展と見られる。多くは北九州で発見され、近畿では2例を見るに過ぎない。

舟形石棺は、4世紀後半出現し、6世紀中ごろまで存続する。初期の石材は竹 割石棺材と同じ讃岐の「鷲の山」「 火の山」の石材が見られるが、北九州から播 磨、讃岐など瀬戸内地方には「阿蘇凝灰岩」が多くみられるようになってくる。 

長ち型石棺は4世 紀末から5世紀を代表する石棺で、近畿中央部の大型前方後円墳の石材に兵庫県の竜山石が使われ大王の墓として確立してくる。 構造は組合石棺で、蓋石は1枚、身は底石1枚、長短両側石各2枚との計 6枚で組み合わせる。蓋石・底石・長側石に断面円形の縄掛突起があり、全体の形状が長持に、似ているところか らの名称です。 

家形石棺は6世紀前葉に畿内系の石棺として出現する。蓋は頂部平坦面の ある屋根型で身には刳抜式と組合せ式とがある。ほとんどが横穴式石室内に設置 する。石材は凝灰岩の「二上山白石」と竜山石で、近畿地方を中心に多く出現す る。ほとんどが二上山の白石です。 




物集女車塚古墳の石棺が語る

この古墳は6世紀中ごろの古墳です。石棺の構造は組合 式家形石棺です。後期古墳の家形石棺としては底石にも 突起があり異様な棺です。この突起は長持形石棺の側石の特徴 で、長持石棺の石材を転用している。また正面の側石と左右の蓋石は竜山石で長持石棺の石材です。底石と 両側の石は二上山の白石で家形石棺の石材です。

結果的にはこの古墳は、長持形石棺石材の竜山石と家形石棺石材の二上山白石で石棺が構成されている。長持形石棺から家形石棺 への変遷は100年ほどである。つまり 当初は5世ごろの王が長持形石棺に葬られ、その後100年間 に、新たな豪族の支配するところになり、新たな豪族は、前王の権威を表現する竜山石の長持形石棺の形式で組合式家形石棺を造り祭祀に備えたと推測される。


物集女車塚古墳の地域は、乙訓(おとくに)と呼ばれ、桓武天皇の母、高野衣笠の父は新羅系渡来人の和乙継(やまとのおとつぐ)と呼ばれた渡来人で、この石棺の変遷は石器の加工技術の発展などと合わせ考えると、渡来人の息吹が感ぜられ、渡来人が倭に帰化し大和の主力勢力となっていったとを、この古墳が語っているかもしれな い。ひょっとすると聖徳太子に仕えた秦一族が渡来してきた時期かもしれない。