史跡探訪の予定


史跡探訪グループで訪問する構想をページに載せます。開催時期は未定でこれから具体的の取り組んで行きます。実施できないこともあると思われますが努力してまいります。会員の皆さまからの意見も大いに参考にしたいので、意見をメールで送ってください。今後の計画に組んで行きたいを思います。


①奥飛鳥・稲渕~栢森

飛鳥寺釈迦像・法隆寺者三尊像を造像した仏師止利が賜った坂田寺跡、近くの稲渕宮殿跡.から男綱、飛び石、南淵請安墓、皇極天皇が雨乞をした宇須多伎比売神社、女綱、加夜奈留美命神社へと飛鳥川に沿って歩き、芋峠へ向けれは大海皇子と鸕野讃良媛が吉野へ向けて辿った道となります。季節に恵まれますと飛鳥の棚田の風景も格別を思われます。棚田へ降りることができれば、清流に育っている「ミズアオイ」が見られるかもしれません。正面から雄しべが右側につくものと、左側につくものと2種類がありあります。 ミズアオイは絶滅が危惧される貴重な植物です。

  春霞春日の里の植ゑ小水葱(こなぎ)苗なりと言ひし柄はさしにけむ (万葉集3四〇七)

「水葱(なぎ)」がミスアオイのことです。

万葉歌の解釈ヒントは咲いたばかりの小さなミズアアオイに掛けた恋歌です。

水葵(ミズアオイ)

万葉集「水葱・なぎ」



②談山神社から飛鳥大原神社

談山神社の創建は鎌足の長男「定慧」が創建した定樂寺で、摂津藍野の安威山に祀られていた鎌足を、弟の藤原不比等と相談しこの地に祀たとされる。しかし『延喜式』・『三代実録』に被葬者は不比等であるとされる。律令制から平安時代の藤原氏の基を造った不比等が祀られたとしてもまったく不思議でないでしょう。律令制前の様を探ると、鸕野讃良(持統天皇)、史(不比等)、橘(三千代)、安宿(光明子)はいずれも西漢(かわちのあや)の地域の名称であり養育を受けていたと考えられ、持統天皇の草壁皇子から聖武天皇へ皇統を確立させた中心に不比等がいた。また不比等は旧都の藤原京に「藤原」の由来残したとも考えられる。もとは「新益京」とは飛鳥京を増設した京という意味です。それを藤原と呼ばさせたと思われます。

次回予定する阿武山古墳に鎌足が葬られている。鎌足は多武峰に移ていなかったのです。

他に多武峰は延暦寺と対の修行の場で、高僧であるが変人の増賀上人は奥の院の念誦堀(ねずき)に葬られている、

飛鳥大原郷の鎌足生誕史跡神社



③高槻市・阿武山古墳・今城塚古墳・新池埴輪公園

阿武山古墳は藤原鎌足の墓とみられる古墳で、昭和8年に夾貯棺で埋葬されていた人物が発掘された。その後すぐに埋め戻された。この人物は日本書紀の記述や副葬品(大織冠とみられる大量の金糸やビーズなど)から藤原鎌足とされる。京都大学の地震研究所内の敷地で、発掘された時のレントゲン写真が残っている。近隣に茨木市には大織冠神社があります。

今城塚古墳は継体天皇陵で間違いないとされてる。この陵の特徴は継体天皇の葬儀を著わしたとされる埴輪の列です。この埴輪が制作された工房が新池公園として整備されている。宮内庁はこの近くの太田茶臼山古墳を継体天皇陵と比定している。

 

新池埴輪製作遺跡



④湖北に十一面観音を訪ねる

「お堂に入ると、丈高い観音様が、むき出しのまま立っていられた。野菜や果物は供えてあるが、その他の装飾は一切ない。信仰のある村では・・・金ピカの塗りたがるものだか、そいうことをするには観音様が美しすぎたのであろう。」の表現と「美しい顔の横から、邪悪な相をのぞかせるばかりか、一番恐ろしい暴悪大笑面を、頭の真後ろの付けている。みようによっては、後ろ姿の方が動きがあって美しく、前と後ろと両面から拝めるようになっているのは、ほか仏像とは違う」

これは、白洲雅子さんの「十一面観音巡礼の向源寺」の一説である。

・鶏足寺の十一面観音・・・お寺の説明で、村に来られた花嫁との説明がうれしかった。

・石道寺・・・鶏足寺からの山道が素晴らしい。歩くだけで、癒される景観があります。

向源寺十一面観音

奥琵琶湖パンフレットより



⑤東漢(やまとのあや)と西漢(かわちのあや)を飛鳥に見る

倭の五王の時代に朝鮮半島がら鉄鋌などの鉄素材が輸入され短甲や挂甲などが作られた。交易拠点が半島南東部の伽耶や任那などでした。その交易品とした倭からはヒスイの勾玉が流出していったと考えらている。写真は新羅の金冠でヒスイの勾玉で飾られています。他にも首飾りになったヒスイの勾玉が古墳がら出土ています。日本の古墳時代中期に、土器を造るロクロや、窯を使って焼成する酸化還元炎焼成技術が伝えられ同時にそれを担った人々が渡来してきたと考えられています。

『日本書紀』応神天皇20年に阿知使主(あちおみ)が渡来した記述があり、この時代に交易が活発のなり、さまざまな技術をもった渡来人が倭に渡って、漢(あや)と呼ばれました。大和に居住した人たちが東漢(やまとのあや)。河内の居住した人たちが西漢(かわちのあや)と呼ばれました。その後白村江の戦いなどで百済が滅亡し、倭に渡来した人が今漢(いまてきのあや)と呼ばれました。

応神期に渡来人した「阿知使主」が渡来人の祖とされ、大和檜前の於美阿志神社の祭神となっています。

韓国慶州国立博物館

新羅の金冠




巡ってみたい史跡とその他問い合わせ

  • 行ってみたい史跡などを紹介してください。・・・検討させて頂きます。
  • 本で読んだけれど、「なんのこと?」などの疑問をお寄せください・・・調べてみます。

          ***** 範囲は日本史ですよ ***** 


メモ: * は入力必須項目です